-----------------------------------------------------------「sickness 中編」
sickness 中編
氷室が志穂を「社会見学」に誘ったのは、それから二週間後の休日だった。
本当はもう少し早く息抜きをさせてやりたいとは思っていたが、
あの日から最も近い休日は志穂の通う予備校の統一模試と聞き、
敢えて邪魔をするのもと憚られ、翌週に延ばす事となったのだ。
氷室はその胸に抱く志穂に対する感情を、持て余していた。
恋と呼ぶには何かか足りず、同情というには余計な好意が有る。―つい、目で志穂を追いかけてしまう。
学校に居る志穂は、以前と何も変わらない。
・・・しかしそれが表向きの顔だと知ってからは、その姿すら氷室の瞳には痛々しく映る。
―氷室は志穂に自分が重なって見えていた。志穂を連れて行く場所は決まっていた。
去年の今頃、丁度志穂のように疲れた顔をしていた受け持ちのクラスの女生徒を連れて行った場所だ。
『・・・綺麗。』
そう言って彼女は柔らかく微笑むと、両手を広げ空を仰いだ。
『有難う御座います、氷室先生。何だか肩の力が抜けた気がします。』
帰りの車の中で、彼女は心なしか晴れやかな表情で何度も礼を言っていた。
―志穂を癒す事が出来るかどうか、確証は無かった。
しかし・・・目の前で泣かれるとは思っても見なかった。人工物では作り上げる事の出来ない暖かな光に、志穂の緊張は解けた。
無意識のうちに志穂の頬に涙が伝う。
「・・・有沢、君は無理をしすぎだ。」
俯き、涙を隠していた志穂はその言葉に顔を上げた。
その表情は『あの日』より更に素顔に近い。―人との距離を保つのは、傷つかないように。
本音を隠すのは、距離を縮めないように。
そうする事でしか自分を守る事が出来ずにいた志穂の中に、氷室は既に入り込んでいた。
いとも簡単に。
涙でその役目を果たせずにいる志穂の眼鏡を、氷室はそっと外した。
丁寧に折りたたみ、胸のポケットに差し入れる。
志穂は口を真一文字に結び、後から後から溢れ出る激情を堪えた。
「・・・無理をするな。泣きたい時には泣きなさい。」
氷室は幼子を宥めるように志穂の頭を腕でやんわりと包み、頭を撫でる。
「君はもう少し素直になれる場所を作るべきだ。このままでは君は自分の虚像に潰されてしまう。」
―割り切ったような口調。
それは自分を守る為の強固な鎧だった。
氷室の言葉に、奥に隠れる心が露になる。
「・・・それなら、ここがいいです。」
氷室の胸に顔を埋めたまま、志穂は呟いた。
だらりと力なく落ちていた腕を、氷室の背に回す。
氷室は突き放したいかもしれないのに、こんな姿を晒している自分は卑怯だと志穂は思った。
しかしどんなにずるくても、この安らぐ場所を失う事の方が怖かった。
・・・同情でもいい。傍に居て欲しい。
冷たい風で冷えた身体を温めてくれる腕の中で、志穂は切にそう願った。
―志穂の胸の内を悟るように、氷室は頭を撫でるのを止め志穂の腰に腕を回した。
力を込めれば折れてしまいそうなその細さに、驚く。
「私でいいのであれば・・・君の傍に居よう。」
そう、これが彼の本音なのだ。
愛情に「足りない」などといった質量は関係無い。
目の前に居る志穂を愛しく思い、支えてやりたいと願う。
それが愛情以外の何だと言うのであろうか。
―単なる同情と切り捨てるのなら、抱きしめたりはしない。
志穂の額に、氷室の唇が触れた。
その感触に顔を上げると、今度は志穂の唇に触れた。
軽く、掠め取るようなキス。
志穂の顔は一瞬で朱に染まった。―氷室は抑え切る事が出来なかった。
志穂も抑える事が出来なくなった。「・・・先生。私・・・。」
志穂の告白を、氷室は冷え切った指先で妨げた。
その冷たさに、志穂は身震いする。
「・・・寒いな、車に戻ろう。」
唇に微かに残る感触が、まるで幻だったかのように思えるほど、氷室は教師の顔に戻っていた。
氷室は志穂の頬を一撫ですると、クルリと背を向け歩き出す。―同情でも・・・いい?
ただのキス。
それを得ただけで欲深くなる自分に苦笑しながら、志穂は氷室の広い背中を追いかけた。