-----------------------------------------------------------「sickness 後編」

sickness 後編
 

―志穂は夜の闇が疎ましく思えた。

家に帰れば、この幸福感も皆・・・幻のように消え失せるという確証があった。
窓の外を流れる街の灯りを、ぼんやりと見つめる。
その一つ一つに暖かな家庭が有るように見えて、志穂は思わず目を背けた。
「どうした?」
急に俯く志穂に、氷室は目線を前に向けたまま問いかけた。
「・・・帰りたくないなって、思ってました。」
氷室の表情を探るような視線を送った。

「全く・・・君は。まるで子供だな。いつまでも目を背けていてどうする?」
氷室の言葉の冷たさに、志穂は一瞬息が詰まった。

―徐々に自分の胸の中に広がってくる感情に対する危機感が、氷室に冷たい台詞を吐かせた。

「ではもっと強くなれるように、現実から目を背けないように・・・勇気を下さい。」
涙は、出なかった。代わりに志穂にしては大胆な言葉が、口を突く。
いつまでも逃げては居られない。
誰よりも自分が、一番よく分って居た事だ。
「・・・どういう意味だ?」
「先生は、傍に居てくれると言いました。・・・その証を、離れていても思い出せる位に強く刻み付けて下さい。」
志穂の言葉が、氷室の眉間に皺を寄せさせた。
氷室の中では必死で跳ね除けようとする感情が、高まる一方だった。

―何故、自分は否定しようとするのか。
自分が教師で、彼女が生徒だからなのか?
・・・しかし・・・もう遅い。
彼女の唇に触れてしまった時から、もう既に手遅れだ。

氷室の手が志穂の手に伸び、軽く握る。
「・・・約束は、守らねばならないな。」
その言葉に、志穂は軽く氷室の手を握り返した。

―最初は、同情だったのか。
最初から、別の感情が動いていたのか。
 
「先生って呼んだら・・・変ですか?」
一糸纏わぬ姿でベッドに横たわる志穂が、真剣な表情で問う。
「・・・どうでもよろしい。」
志穂の問い掛けに、氷室はその事実から目を背けようとしていた自分が急に無様に思えた。
そう・・・どうでもいい事だ。中途半端な抑制など、無意味だ。
「私・・・卑怯です。」
氷室の胸元に顔を埋めて、志穂は懺悔をした。
「先生に・・・先生の温かさにつけこんで・・・。」
志穂にそんなつもりは無かった。しかしこうしている事に、何故か罪悪感を感じた。
「・・・私はそんなに簡単な人間に見えるか?」
頭を軽く抱え込むと、そっと短い髪を撫でる。
志穂が顔を上げると、甘く唇が塞がれた。
緊張に強張る志穂の唇を解きほぐすように、ゆっくり啄ばむ。
背中に指を滑らせると、唇と唇の隙間から甘い吐息が洩れた。
体を僅かに離し、控えめに実る乳房を軽く掌で覆う。
柔らかな動きを加えると、志穂の唇の隙間から舌が伸びてきた。

―きっかけは、偶然だった。
 
ぎこちなく続きを求めるような舌の動きに、応える。
志穂の息が荒くなるのを唇で感じると、手の中の果実の先端を甘く指間で挟んだ。
「・・・んっ・・・。」
志穂のしなやかな背が反る。
唇を離すと、氷室は指間で徐々に固さを帯びるものを弄ぶ。
「や・・・あっ・・・。」
拒絶を意味する言葉の理由は、恥じらい。
それは志穂の頬をみるみる染めてゆく。
そんな志穂に追い討ちをかけるように、氷室の空いた手は内腿を滑る。
緊張で固く閉ざされた太腿を冷たい指先が、解きほぐすようにゆっくりと行き来する。
氷室の繊細な指先に翻弄され仰け反る志穂の首筋に、口付けが施された。
啄ばみ下る唇の挙動に、志穂は甘く鳴きながら軽い痙攣を起こす。
 
―その偶然すら、必然のように見える。

「んっ・・・・。」
志穂は自分の力が完全に抜け落ちていた事を、氷室の指の侵入で気付いた。
意識は朦朧とし、視界もままなら無い状態では状況の把握もままなら無い。
氷室の指先はそんな志穂の耳にも届くほど、淫猥な水音を奏でていた。
「・・・せん・・・せ・・・。」
うっすらと開いた瞳が捉えたのは、男の顔をした氷室だった。
志穂はその視線に、戸惑いながらも喜びを感じる。
同情でも、いい。そう思おうとしていた。
しかしその表情に、確たる物は得られなくても喜びを感じてしまう。
『好き・・・なんだ。』
認めても、もう絶望も否定もしなかった。
触れ合う肌の温もりは、不安をかき消してゆく。
嬉しいという想いは身体にも顕著に現れ、蜜は溢れだし更なる行為を望む事を氷室に伝えていた。

―愛し合う者達が求め合うのは、必然。

氷室を受け入れた志穂は、全身に痺れを感じた。
手、足。頭までもその疼きに痺れ、酔う。
身体の深くまで、重なり合う事がこんなに幸せなのだという事を、志穂は知らずにいた。
『あの子さえ、居なければ・・・。』
不意に頭に響く、志穂を鋭利に傷つけた母親の言葉が色褪せて感じられる。
あの言葉は本心ではないと、妙に納得出来た。
・・・悦びを知ったからだ。
自分の中で渦巻く悲しみにケリをつけると、志穂は全ての意識を氷室に預けた。

―氷室の腕の中で朝を迎えた志穂は、まるで憑物がとれたような表情をしていた。
 
志穂は眠る氷室へ軽く口付けを贈る。
固く閉じていた瞳が、開いた。
「先生・・・。私が立ち直ったら、もう傍に居てくれなくなるんでしょうか?」
氷室の眉間に皺が寄り、何事かといった表情で志穂を見つめる。
「・・・馬鹿な事を言わないで寝ていなさい。まだ五時だ。」
不機嫌な声でそう言うと、志穂を抱きなおし氷室は再び目を閉じる。
それにつられて、志穂もまた目を閉じ眠りについた。

―有沢。君が何を懸念するのかは敢えて問わない。
だが・・・私の心は既に君のものだ。
偶然にも道で倒れた君を見つけたあの日。
このベッドでうなされながら、君が寝言で私の名を呼んだ日からもう・・・
私は君の虜だ。
・・・絶対に言葉にはしないがな。
  

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