-----------------------------------------------------------「sickness 前編」
sickness 前編
あぁ・・・瞼が重い。
そういえばさっき・・・風邪薬を飲んだんだった。
最近、全然眠れないもの。こうなるのは当然だわ。
・・・予備校・・・行かなきゃ。
景色が回り始めた。
ここ・・・どこ?このままじゃ、壁か地面とキスする羽目になりそう。
身体の力が、不自然に抜き取られて真っ直ぐ歩く事もままなら無い。
「・・・も・・・だめ・・・。」
熱を帯びた身体を、どこかの家の塀に預け、目を閉じた。
このまま熱を吸い取ってくれたら、楽になるかしら?どこかで嗅いだ事のある、淡いムスクの香りが私を包んだ気がした。
・・・目を開けて誰かを確かめる事も出来ず、私はそのままその腕に身を委ねた。―道端にうずくまる志穂を、彼女が密かに想いを寄せる教師が通りかかったのは、偶然。
目を覚ますと、志穂は薄暗い見慣れぬ部屋に居た。
額が、心地よく冷たい。
驚きに飛び起きると、闇の中に人影を捉えた。
「大丈夫か?随分熱があるようだが。」
耳に馴染んだ声に、その主が誰か志穂はすぐに分った。
淡い恋心を尊敬という言葉で打ち消し、会いたいという想いを『質問』にすり替えて、
辛うじて心のバランスを保てる男性。
「・・・ここは?」
「私の部屋だ。」
少し胸が熱くなる。
興味は有った。
しかし立ち入ることの出来ない場所だったからだ。
意識をすると、志穂は急に緊張を覚える。
志穂はここに辿りついた理由を、記憶の中から探ろうとした。
予備校に行く途中、風邪薬のせいで意識が朦朧として・・・。
自分を包んだ腕の正体が氷室と知り、少し恥ずかしく思えた。
「相当無理をしているようだな?」
優しい声が、志穂の緊張を解きほぐす。
「・・・最近、よく眠れなかったので。」
「悩みでもあるのか?」
氷室が志穂の横たわるベッドへ歩み寄る。
気恥ずかしさに、志穂は鼻の先まで毛布に埋めた。
「特に・・・無いですけど。」
否定しきれないのはいつも張り巡らせている心のガードが、熱のせいで緩んでいるせい。
志穂はそう自分に言い聞かせた。
―愛しても届かないという事は、分っていた。
「・・・けど?」
曖昧な言い回しを嫌う氷室は、思わずその志穂らしからぬ言い回しに詰め寄る。
「・・・何でもないです。」―この想いを恋とは認めたく無かった。
開きかけた心を急に閉じられて、氷室は少々の苛立ちを感じた。
勉学に対して積極的な姿勢を見せる志穂に、氷室は好感を持っていたからだ。
しかし明らかに弱っている志穂に詰め寄る気にもなれず、そのまま何も聞かない事にした。
「・・・とにかく、落ち着いたのであれば車で家まで送ろう。」
”家”その言葉に、志穂は強烈な不快感を覚えた。
「イヤです・・・。」
咄嗟に子供染みた我侭が口を突く。
―志穂が恋愛を嫌悪する原因は、両親に有った。
大恋愛の末結ばれたのだと、母は幼い志穂によくのろけた。
しかし・・・今は・・・。「・・・眠れない原因。」
独り言のように呟く志穂の言葉に、氷室は耳を傾けた。
「眠ろうとすると・・・階下からいつも、言い争う声がします。」
まるで泣くのを堪えるかの表情を浮かべている志穂を、
氷室はじっと見つめた。
その目の奥の優しい光に、志穂は心の奥に巣食う膿をどんどん言葉に変える。
「”・・・あの子さえ、居なければ。”母の声がはっきりと聞こえてくるんです。
私、子供でも無いのに・・・その言葉が耳に残ります。悲しみ、というよりは憤りで眠れません。」―永遠に続く愛なんて無い。
恋なんて、儚い。
志穂が、そう思い込んでいるのは必然。「憤りの大半は、母へ向いています。何でも他人のせいにしないと
生きていけないあの人の脆さが、嫌いです。それを許す・・・父も。」
本心は逆だった。自分の居場所を否定された孤独感に堪える為に、敢えて両親を憎んだ。
自分を、守る為に。
「・・・済みません、感情的になりました。熱のせいですね。」
重苦しく変化した空気を取り繕うように、志穂は明るい声を出した。
しかしそれは思惑とは逆に、志穂の哀れさを引き立たせる。
「無理は・・・良くない。」
氷室は自分の口下手さに、うんざりした。
気の効いた言葉を吐けない自分の未熟さを呪う。
「ここなら、何も聞こえまい。ぐっすり眠るといい。」
幾ら思考を張り巡らせても、志穂を上手く慰める言葉が出ないと悟ると
身体を休めるように促した。
―志穂が今日、体調を崩し道端にうずくまったのは偶然。今まで聞いたことの無いくらいに優しい声が、志穂の心を溶かし始める。
「氷室先生。・・・甘えてもいいですか?」
毛布から覗く瞳は、熱のせいか潤んでいる。
「・・・何だ?」
志穂の言動に明らかな無理を感じた氷室は、志穂の申し出を聞こうと思った。
「手・・・握ってて下さい。」
・・・熱のせい。こんな事を言うのは、熱のせいだと志穂は自分に言い訳をする。
反面、そんな自分を悲しく感じた。
普通では素直になれない自分が、小さく思えてならない。
氷室が好きだという感情を、素直に受け入れられない。
―氷室へ対しての想いがさらに募るのは必然。毛布から僅かに姿を現した熱い手を、氷室はそっと握り締めた。
「君が眠るまでこうしていよう。」
ひんやりと冷たい手の優しい温もりに、志穂は穏やかな笑みを浮かべて目を閉じた。窓から注がれる月明かりが、久しぶりに心地よく感じられた。
―幾重にも折り重なる「偶然」と「必然」
それは「運命」と称するに相応しい出来事なのかもしれない。・・・運命の歯車が回り始める。