-----------------------------------------------------------「雪洞」
雪洞
一体どうしてこんな事になってしまったのだろうか。
どこで帰道を間違えたのだろう?私としたことが。
つい先程まで晴れていた空は、あっという間に深い鉛色になった。
冷気をはらんだ雲は低くたれ込めて、山から吹き下ろす風は徐々に強くなる。
その風にさらりとした感触の雪が吹き上げられて地吹雪となっていった。
数メートル先もよく見えない中、私は彼女をコートの中に庇いつつ歩いていたが
もとより軽い散歩のつもりで宿から出てきたため、寒さを遮るにはとても足りない。
風と雪を防げる場所を見つけなければ、二人とも凍えてしまうだろう。
宿から歩いて30分ほどのところに、白鳥の飛来する湖があるというので
眼を射るような新雪の輝きに誘われて出かけた帰り道のことだった。
宿の敷地には大きな木がそびえており、それを目印にしてきたつもりだったが・・・。
大きな声で彼女に呼びかけても、地鳴りのような風にかき消されてしまう。
油断をすれば腕の中の彼女さえ見失ってしまうかのような恐怖さえ覚える。
「・・・・れい、いちさん、あそこ・・なにか・・・あ、ります・・・」
とぎれとぎれの声で彼女が指し示した先には、小さな小屋があった。
地面から吹き上げる雪のせいで、目の前に来るまで気づかなかったらしい。
入ってみるとそこは農機具をしまっておく小屋のようだった。
雪に覆われてわからなかったが多分この雪の下には田か畑があるに違いない。
すきま風は入るが何とか吹雪からは身を守れそうなので、しばらくここで休むことにした。
火をおこせれば一番いいのだろうが、ポケットを探ってもライターすらなかった。
彼女の顔は痛々しいほどに青ざめて、小刻みに震える唇は血の気を失っていた。
「大丈夫か?」
そう、声をかけても私の方にいっそう身を寄せて微かに頷くばかり。
少しでも暖めたくて手に息を吐きかけてやっても、彼女の手は氷のようだ。
外の地吹雪は一向に収まらず、小屋の室温も着実に下がっていく。
「どうしたらいい、どうしたら・・・。」
気ばかり焦って何も良い案が浮かばない。
それどころか軽い眠気をふっと感じたことに戦慄した。
眠ったら終わりだ。私も、彼女も。
きつく抱きしめて、たわいもないことをあれこれ話しかける。
私の声も情けないほど震えているが、彼女の声は更にか細く消え入るようだ。
返事がとぎれがちになる度に、軽く頬を叩いて揺り動かす。
「眠ってはいけない、目を開けて私を見るんだ!私の声を聞くんだ・・・・。」
そういいつつも私自身に襲う先程よりも強烈な眠気に意識が引きずり込まれる。
手足の感覚がなくなるほどの寒さの中にいながら、不思議に体が暖かい。
悪魔の誘惑にも似た眠りへの誘いに、あと、私の意識は・・・どのくら、い・・・・・。
「・・・さん、零一さん!ねえ、起きてくださいってば!!」
「・・・ここは、どこだ・・?吹雪は、君は・・・。」
「もう、いくら雪道を運転して疲れたからって窓をきちんと閉めないでうたた寝しちゃ
だめじゃないですか〜。せっかくの暖かい空気が逃げちゃいますよ。」
そういいながら、彼女は窓辺に寄りわずかに開いていた窓を閉めた。
そうだ、宿に着いたとたん彼女が雪に大はしゃぎして宿の周りを歩いてきたいと言って・・・。
「零一さんは少し休みたいっていったから、一人で出かけてきて帰ってきたら
お部屋が寒くなってたからびっくりしました。ほら、雪がちらついてきましたよ。」
窓の方に目をやれば確かにひらひらと、儚い花のように白いものが舞い始めた。
「湖、どうしましょう?白鳥さんに餌やりたいのに・・・。」
「み、湖!?だめだ!今日は中止だ!」
「うわっ!どうしたんですか?あの、私何かいけないことしちゃいました?」
自分でもびっくりするような声が出て、彼女もきょとんとしている。
しかしだ、言えるわけがない。散歩の帰りに遭難しかかった夢を見てそれが恐いなどと。
正夢になったら君はどうするのだ?などと言ったら彼女は笑い転げるだろう。
この私が夢などという抽象的な事象に振り回されるなど、ありえない。そう、断じて。
「う〜ん、じゃあ、じゃあ・・・私、露天風呂に行ってきてもいいですか?」
「待ちなさい。一人では危ない。岩で滑って怪我でもしたらどうする。私も行こう。」
「あのー、私子供じゃないし〜。それに、混浴じゃなし・・・。」
「なに?そ、そうか・・・・。」
自分の顔がカーッと火照るのがわかる。バカか、私は。
「気をつけて行ってきなさい。私は、そう、本でも読んで待っているから。」
「は〜い♪いってきま〜す。」
何もないところで転ぶような彼女のそそっかしさに一抹の不安を覚えながら、
私は窓の外に舞う雪を眺めながら、心を静めるように本のページを繰り始めた。
fin.