-----------------------------------------------------------「境界線」

境界線

熱の引いた体をそっとベッドから滑り落とすと、近くにあったシャツで肉つきの少ない体を覆い隠した。
冬間近の冷気が足元からひんやりと立ち上ってくる。
サイドボードに置いておいた眼鏡をかけると、ぼんやりとしていた頭が目覚めてくる気がした。
そして私はいつもの私に戻っていく。
彼はまだ規則正しい寝息を繰り返している。いつものように1時間たったら起きてくるのだろう。
端正な寝顔を一瞥すると、視線を窓の外に向けた。
レースのカーテン越しに見える外の景色は静かな雨で煙っている。こんな雨の日は・・・嫌いじゃない。
服を抱えて、バスルームへと向かった。

持ってきていた問題集を解いていると、ドアの開く音が聞こえた。
「分からない所はないか? 
声がした方を見向きもせずに首を振る。バスルームへと消えていく足音にちらりと視線を上げると広い背中が見えた。
こんな日曜日を過ごすのは何度目だろう。
でも・・・そう。最初にここを訪れた日も今日みたいな雨の日だった。
私はペンの先を唇に当てる。考え事をする時の私の癖だ。
あの時、ここから出てくる守村君を偶然見かけたのだった。
守村君の話によると、学校の勉強以外の質問でも先生は快く答えてくれるという。
迷うことなく先生の所に行くと、少し困った顔をしながらも先生は了承してくれた。
先生のクラスになれずに落胆していた私は狂喜した。
それから、時折休みの日になると先生の家を訪れるようになった。
守村君と一緒の日もあった。そんな時は、どちらかが勉強をしながら先生の手が空くのを待っていた。
先生の部屋は綺麗に整頓されていて気持ちが良い。自分の部屋よりも予備校よりも落ち着いて勉強ができる。
私が勉強しているのを先生は邪魔しないし、うるさい忠告もしない。ただ黙って受け入れてくれる。
だからこの場所が気に入っていたのに。
「もう、ここに来るのはやめなさい。質問なら学校で聞こう。」
ある時、突然そう切り出した先生の言葉に私は動揺した。守村君はその日来ておらず、私一人だった。
「どうしてですか?理由を・・・理由を聞かせてください。」
先生は困った顔をして珈琲を飲んでいる。しばらくしてためらいがちに口を開いた。
「君が・・・女子生徒だからだ。私は教師だ。しかし、男でもある。そのことを考えたことがあるか?」
そんなこと、考えたこともなかった。先生は先生だ。
「おっしゃっている意味が分かりません。」
正直に答えると、先生はため息をつく。
「有沢。君は実に優秀な生徒だ。私としても君の質問に答えるのは非常に興味深い。しかし、君は生徒だ。
ここに来ることでそれ以上のものを感じさせる訳には行かない・・・。言っている意味が分かるか。」
先生は眼鏡越しに私をじっと見つめている。それは教師の眼だったが、時折違う光が見え隠れしているようにも見えた。
私は冷静に解決策を考えようと頭を働かせる。
ここを追い出されるのは嫌だ。でも先生は私をもうここには入れてくださらないだろう。それは私が先生の生徒だからだ。
では。
私はかたりと眼鏡をはずす。ぼやける視界の中、先生に近づいて眼鏡を取り上げる。
先生は何も言わずにされるがままになっていた。私は先生に唇を寄せ小さく囁く。
「では先生。私を・・・先生の『特別』にしてください。ここに来ても良いように。」
そして私は先生に抱かれた。

過去にさかのぼっていた私の意識を、珈琲の匂いが呼び戻す。気がつくと先生は私の目の前にいつものように座っていた。
髪が少し濡れてはいるが、きちんとした服装をしている。
「分からない所があったら質問するように。」
そう言っている先生は、完全に教師の顔をしていた。
「はい、氷室先生。」
私はカバンの中から質問する予定だった所をまとめたレポートを取り出す。
先生はどの教科を質問しても的確な解答を返してくる。知らないことなどないかのように。
それでもそれが終わる頃には珈琲がすっかり冷めていた。
「ありがとうございました。氷室先生。」
私はキッチンへ行くと2人分の珈琲を入れる。ささやかなお礼だ。
向かい合って珈琲を飲む。緊張していた脳が心地よくほぐれていくのを感じていた。
窓の外はまだ静かな雨が降っている。
「そう言えば、さっきは何を考えていたんだ。」
「ここにはじめて来た時のことを。あの日も雨だったので。」
「そうだったかな・・・。」
先生は珈琲を飲みながら何かを考えている。カップを持つ先生の指先は繊細で綺麗だ。私の手よりずっと大きいはずなのに。
「先週の模擬試験の結果はどうだった。」
「はい。志望校は安全圏ですから、まず大丈夫だと思います。先生のお蔭です。」
先生は苦笑しながら、視線を窓の外へと向ける。
「君は、どこまでも生徒の口調で話すのだな。」
「当たり前です。私は先生の生徒ですから。」
 

私のその言葉に、先生は眉をかすかにひそめて私を見やる。
「・・・『特別』にして欲しいと言ったのは君だ。」
確かにそう言ったのは私だ。でもそれはこの場所を失いたくなかったからで、私が先生を『特別』に思うこととは別なはずだ。
先生は私を手招きする。
先生の前に立つ私に、探るような視線が向けられる。眼鏡をはずそうとした私の手を先生は止めた。
私が眼鏡をはずす意味を、先生はよく分かっている。それは私たちが似たもの同士だからかもしれない。
「君は・・・私のことをどう思っている。」
「先生として、尊敬してます。」
「それは生徒としての君が発言している答えだ。私は生徒でない君の答えが聞きたい。」
私は沈黙する。先生は黙って私を見ている。その瞳は教師のものではなかった。
その眼は・・・フェアじゃない。私はかすかに苛立ちを覚える。
私は・・・私たちは眼鏡をかける事で、境界を区切っていた。
現実と非現実。自分と世間。公と私。
そうすることで、世の中と向き合ってきた。そういう生き方を選んできた。
でも、先生はその境界を崩そうとしている。
眼鏡をかけたまま私を・・・生徒でない私を見ようとしている。
「やはりこれがあると駄目か。」
先生の手が私の眼鏡をはずした。視力の悪い私でも先生の顔が見えるほどに近くに引き寄せられる。
「もう一度聞こう。君は、私をどう思っているのだ。」
境界線を失った私は、自分の輪郭がぼやけていくのを感じる。思考すらも曖昧に溶けていく。
「・・・嫌いじゃないわ。」
先生の眼鏡に伸ばした手をつかまれ、抱き寄せられる。耳元で先生の声がする。
「『嫌いじゃない』か。なかなか便利な言葉だな。」
相手を拒絶する訳でもなく、受け入れる訳でもない。でも他に、この気持ちを表す言葉を私は知らない。
「では君はなぜ私に抱かれるのだ。」
先生は私の耳を弄りながら更に問いを繰り返す。
「この・・・場所を失いたくないから。」 
「今更君を追い出したりはしない。嫌なら嫌と言えば良い。」
それは分かっていた。先生は決して無理強いはしない。私がいやだと言えば絶対に抱こうとはしなかった。
「・・・嫌いじゃないから。」
私はその答えしか見つけることが出来ない。私は本当は愚かなのだろう。だから勉強をして、その愚かさを隠そうとするのだ。
眼鏡で顔を、心を隠そうとするように。
先生の手が服の中へと忍び込んでくる。先生の手はいつも冷たい。だから私の体は熱を出してその手を温めようとする。
皮膚が外気にさらされる感触に私は首を振って抗う。
「眼鏡を・・・はずして。」
眼鏡をしたまま見られるのは嫌だった。先生は黙って私の服を床へと落としていく。みっともない体が視線にさらされるのを感じて顔を背けた。
震える身体を温めるように、先生の手が、唇が私を優しく撫でる。
「見たくないものから眼を逸らしても、それが無くなる訳ではないだろう。」
小さく先生が呟いた。時折触れる冷たい感触が私の理性をぎりぎりの線で保たせる。
それでも、気がつけば私は先生の動きに酔っている。するすると動く指に吐息が漏れる。
「分かって、るわ。そんなことは。」
私の言葉に先生は手を止め、私を見すえる。
「では眼鏡をかけて私を見なさい。生徒としてではなく、有沢志穂という一人の女性としてだ。」
「・・・出来ません。」
考えただけで身が竦んだ。生徒でいるから、くっきりとした視界の中で先生を見ることが出来るのだ。
有沢志穂として先生を見てはいけない。見るのが怖い。

−その視界の中、私は先生の何を見るのだろう。
 

これ以上話すのが怖くなって、私は先生の唇を塞いだ。かすかに開いている唇から言葉が出てこないよう、隙間を舌で埋めていく。
先生の手が私を引き寄せ、膝に乗せる。背中を撫でる手がゆっくりと下へと降りていくのを感じながら、醒めた頭の片隅は思考し続ける。
私の中の氷室零一という人間は、曖昧な輪郭しか持たない。
先生という鎧もなく、ただぼんやりとそこに存在しているだけだ。何を考えているかすら分からない。
それでいいと思っていた。どう思われていようが構わない。
ここに居られるのなら、それでいい。
・・・それは嘘。
 

先程与えられた快楽の残滓が、先生の指の動きを滑らかにしている。ゆるゆると動く指から湧き上がる感覚が身体を覆っていく。
いつのまにか離れていた唇は、音を発することなくただ熱い吐息を繰り返す。時折差し込まれる衝撃に体が揺れる。
私は、形を与えてしまうのが怖いのだ。形を持った氷室零一の心、に。
その心に、私は答えることが出来ない。答えを、出したくない。
・・・嫌いじゃないから。
「何を考えている。」
指を引き抜きながら、先生は静かに尋ねる。私はただ黙って首を横に振る。
準備の整った硬いものが体の下に滑り込んでくる。
「・・・志穂。」
突き刺さる衝撃と名前を呼ばれた驚きに私は思わず目を開ける。
「・・やめて。」
ゆっくりと私の中で動きながら、先生はまた私の名前を呼ぶ。
「やめて。」
名前を呼ばないで。私に形をつけないで。
それでも先生はやめようとはしなかった。
触れ合う場所から生み出される快感と普段より先生を近くに感じる恐怖が私の理性を打ち砕いていく。
溢れる涙を先生の唇がそっとぬぐう。

−お願い、心に触れないで。
このままじゃ、私は先生を。

「志穂。」
「やめてぇ!」
叫ぶような声に、先生の動きが止まる。肩で息をしながら涙を流す私をみて、先生はため息をつく。
「私が怖いか。」
小さく頷く私を見て、先生はもう一度ため息をついた。
かたり、と硬いものをおく音がする。
「・・・性急過ぎたようだな。」
優しい手が頭を撫でる。
「嫌なら終わりにするが。」
「・・・名前を呼ばないで。それが、嫌。」
「分かった。」
小さく答える先生に手を回すと、ゆっくりとした動きが伝わってくる。
溶けてくような感覚に私の輪郭はまた曖昧になって、先生の輪郭と交じり合っていく。

・・・嫌いじゃないわ。
嫌いじゃないから、だから。

次第に激しくなる動きに翻弄されながら、私は高みへと連れて行かれる。
「それでも私は君を手放す気はない。ここが君の場所だ。」
耳元で囁かれる言葉に安堵しながら、返事の代わりにきつくしがみつく。
先生の熱い吐息が耳にかかり、腰を抱く手に力がこもる。
強引に唇を塞いで、溢れそうになる声を殺した。
 

−だから。だから・・・傍にいて。


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