-----------------------------------------------------------「先生と、いっしょ。」

「先生と、いっしょ。」

 

 

  

 

車に長い事揺られているのがこんなにも辛いと知ったのは、修学旅行二日目の午後。私は酷い車酔いと戦っていた。
原因は、初日の夜に同じ部屋になった子たちと明け方まで盛り上がった「恋ばな」のせいかもしれない。
部屋を巡回する先生たちの気配がしなくなった夜更け、私達は八畳の畳の上で車座になって話を始める。
手元には無造作にばらまかれた「ウノ」のカードと、いつ誰からメールを受けるやもしれない携帯電話。
真ん中にはしっかりと封をあけた菓子袋に、甘いジュース。
現在進行形の恋から、終わってしまった恋の話まで、昨日聞いた話はどれも凄く興味深かった。
小学校のキャンプで盛り上がった怪談話よりも、それらの話は実に現実的で私達の心を深く刺激する。
宿の御飯が思った以上に口に合わなくて殆ど食べ残した私は、夜中になって猛烈におなかが空いた。
だから、集まったメンバーの話を大人しく聞いているうちに、いつもの二倍…三倍くらいポテトチップスを摘んでしまった。
きっと、これがいけないんだ。自分の恋の話は全くしないで、ずっとずっと聞き役に回っていたから…。

朝早く宿を出発すると、目的地を目指してバスはひたすら山道を登っていく。
初日はやたらと線香臭い寺院ばかり巡っていたけれど、今日は何処へ行くのだろう。
たいして険しいカーブが続いていたわけでも無いのに、1つ角を曲がるたびに頭がぐるぐると回る。
すっきりと晴れた秋晴の空、小さな車窓からでもはっきりと分かるほど山は紅葉で美しいのに、
さっきから私の前に見えるのは手にしたハンカチの色。
胃の辺りをしきりに手で押さえながら、私は体を折りたたむようにしてぐったりとする。
とにかく眠っちゃえ。寝たら何とかなる。
まじないでもかける様にそう言い聞かせて目を瞑っていたら、何時の間にか真剣に眠ってしまったらしい。
暫くして、お尻の辺りから感じるバスのエンジン音が小さくなったと思って目を開けてみたら、
驚いたことにバスの中は誰もいなかった。いつの間にか、皆は降りてしまったのだ。

「あっれー」
シートに座ったまま背を伸ばしてみる。何か建物の影に入っているのか、バスの中は薄暗い。
立ち上がって運転席の方を覗いたものの、運転手の姿も添乗員の姿も見えない。
此処って、何処なんだろう。場所を確かめたくて旅行のしおりを出そうと、網棚にあげた鞄に手を伸ばした時だ。
バスのステップを踏む靴音が聞こえて、思わず私は姿勢を正した。

「起きたのか」
「あっ、は、はい」
すみませーん。眠っちゃいました。そう言いながら、ちょっとだけ変な方向に癖がついてしまった後ろ髪を手でなおす。
搭乗口から聞こえてくる先生の足音に、私は少しだけ緊張した。
「具合が悪そうに見えたが気分はどうだ」
天井に着くぐらいの長身の体を少しだけ折り曲げるようにして、氷室先生が私の方へ近づいてくる。
「あ、はい…。まだちょっと…」
「風邪か?」
ううん。私は首を横に降った。風邪じゃなくて車酔いかも。そう答えると、「そうか」と先生は肯いた。
たぶん隣の席の子が、気を利かしてカーテンを引いてくれていたのだろう。
先生は半分だけカーテンをあけると、僅かに漏れる光の中で私の顔を見た。先生の眼鏡の縁が鈍く光る。
「ふむ。まだ顔色が少し良くないな」
そう言ってまたカーテンをゆっくりと閉める。
少し前まで騒がしかったバスの中は、不思議なほど静かだ。何処からか鳥のさえずりが聞こえてくる。
「せんせぇ…今何処なんですか?」
もたれていた背を起こして周りの座席をぼんやりと見渡す。
ページの端が折れたガイドブックが一冊、旅先で浮き足立つ心を表すかのように席の上に投げ出されている。
先生は誰の物とも分からないガイドブックを暫く眺めた後、元の場所へ戻した。
「嵐山の休憩所だ」
「えっ…」
閉められたカーテンを一杯に開けると、私はきょろきょろと辺りを見渡した。
バスの中が薄暗いのは、駐車場を囲むように生やされた竹林が作る葉陰のせいだった。
目の見える範囲いっぱいに皆の姿を探したものの、エンジンを止めた観光バスしか見えない。
「じゃあ、もう皆…」
「出発して既に12分経過した」先生は時計を見て確認する。
「えっ…そんなにも前に」
「あと23分後には戻ってくる。今から行っても合流するのは無理だな」
20分ぐらいって言えばいいのに、23分て細かい所が先生らしいな。変な所で思わず感心してしまう。
「じゃあせんせえ…引率は」
「添乗員の方と、B組のサネトモ先生に一任した」
「えっ?それって」
「君を一人此処に置いて行くわけにはいかなかったからだ」
あっさりと先生がそう答えるので、私は驚いてしまった。

「そんな…」
先生は私の事が気になって残ってくれたんだ。そう思うと、嬉しいのと申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「ごめんなさい」
しゅんとなってうな垂れると、頬に冷たいものを感じた。
驚いて顔をあげると、目の前に水の入ったペットボトルが映った。
「飲みなさい」
「えっ」
「少しは楽になる」
口元に笑みを浮かべて、先生は穏やかな口調で言った。
「あの…お、おいくらでしたか?」
たぶん、すぐそこの自販機で買ってきてくれたのだろう。受け取ったペットボトルの表面はきりりと冷えていた。
「お金は結構。生徒からもらう必要は無い」
「ええー」
「いいから!」
早く飲めと言わんばかりに先生はキッと眉を吊り上げた。
「君の担任として必要な事をしたまでだ。それより君は自己管理が全くできてないな」
「は、はい…」
「昨日の夜は定刻どおりに就寝したのか」
「あ、その」思わず私は言葉に詰まってしまった。
「やはりな。君と同じ部屋の者は皆朝から眠たそうな顔をしていた。案の定、嵐山の歴史について私が先程講釈したが」
「せんせぇ、それってガイドさんの担当では」
「何か言ったか」
ぎろりと先生が怖い顔で睨んだのを見て、私はすかさず「いいえ」と答えた。
「まったく…君たちのメンバーは全員私の話を聞かないで眠っていたな」
後で全員反省文を提出してもらう。そう言った後、先生は「早く飲みなさい」と促した。
「はい…」
やっぱり先生怒っているんだ。すっかり気落ちした私はおずおずと水を一口含んだ。
でも飲んだ瞬間、今まで気持ちの悪かった所が一気に楽になっていく。
思わず半分ほど立て続けに飲んでしまうと、私は「はあー」と息をついた。
「せんせぇ、これ美味しいです!」
「そうか。それは良かった」
さっきまでとは別人の様な優しい笑みで先生は「ふっ」と小さく笑った。
「あの…」
ペットボトルを抱えるようにして、先生を見上げる。両腕を前に組んでいた先生は「何だ?」と言う顔をした。
心を込めて「せんせぇ、ありがとう」と呟く。先生の顔がぽっと赤くなった様な気がした。

バスの中で先生と二人きりになるなんて、そんなチャンスは滅多に無い。
「せんせぇ、良かったら」と私が窓際の席に座り直すと、先生は一瞬だけ戸惑うような表情を見せたものの、私の隣に座ってくれた。
時々お邪魔する先生の車のシートと違って、座り心地はあまり良くないけれど、すぐ傍に先生がいるのを感じる。
長い足を高い位置で組むと、先生はまた両腕を前に組む。何だかとても窮屈そうだ。
「せんせぇ?」
「な、なんだ」
「狭い…ですか?」
「い、いや、狭くは、ない」
そんなに汗をかくほどの暑さでもないのに、先生は「ふう」と苦しそうに息をはきながらネクタイの結び目を緩めた。
「せんせぇ汗かいてる様に見えますけど」
「あ、ああ。だ、大丈夫だ。問題ない。極めて快適だ」
「何が快適なんですか?」
「あ、いや、それは…何でもない」
「そう…ですか」
ほんの少しだけ先生の傍に近づいてみる。私の髪が先生の肘に触れた瞬間、先生の体はぴくりと震えた。
「せんせぇ、少し休んでもいいですか?」
まだちょっとだけ気持ちが悪いんです。先生の返事を聞くよりも先に、私は少しだけ自分の体を預けてみる。
「わ、わ、わかった。す、少しだけもたれなさい」
好きな人の肩に寄りかかってお昼寝をしてみたい。私の夢は意外な形で叶った。
でも私の好きな人は、私よりも遥かに体が大きくて、絵に描いた様には上手くいかない。
体をひねって先生の左腕にそっとしがみつく。嬉しくて思わず先生の腕をぎゅっと抱きしめてしまう。
「あっ」と先生の掠れる様な声が聞こえた。

「せんせぇ」
「何だ…」
ささやく様な先生の声が、すぐ耳元に聞こえてくる。そして、とくんとくんと大きな音を立てる先生の鼓動も。
「あの…ありがとうございます」
「……」
「せんせぇが傍にいてくれて」
分かっていると答えるかのように、先生の手が私の頭を優しく撫でる。
ねえ氷室先生。皆、あと何分で戻ってくるんでしょう。23分といわず、もう少しゆっくりと見物してきて欲しいのですけど。

秋風を受けて、竹がざわざわと梢を鳴らすのが聞こえる。
誰もいないバスの中、私は先生の隣で目を瞑った。

 

 

 



カオポンさんの書くお話はどこまでも瑞々しく、初々しさに溢れ、『初恋』という言葉が本当によく似合います。
ほんのわずかに触れあった部分に、お互いの意識が集中する…緊張と、心が震えるようなときめき。
少しずつだけど確実に縮まってゆくふたりの距離に、これからも目が離せそうもありません。
カオポンさん、3周年おめでとう。そして、これからもステキなお話を書いてくださいね。ありがとうございました。

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